説教者 山本憲治 牧師 2011.7.24
説教箇所 マタイによる福音書3章1〜6節
「神の恵みをあらわす、通り良き管となるために」
私達が毎日使っている水道からは、綺麗な水が栓をひねるだけで出て参ります。それを私達は毎日当たり前のように使っています。その水道管を掃除するなどと考える人は、余りいないのではないかと思います。しかし、水道のプロに言わせますとそれは恐ろしいことだそうです。特に、アパートや団地などは、年に最低一回水道管のクリーニングをしてほしいと言っていました。最近では、テレビなどでもその水道管の様子が映し出されていましたが、おぞましい映像でした。カルキや錆のヘドロの中を飲料水が流れており、それを私達が飲んでいるというのです。
さて、私達の心はどうでしょうか。イエス・キリストの愛と恵みを頂くために、主とあなたをつなぐ信仰の管は、通り良き管となっているでしょうか。
主が与えようとしている祝福に満ち溢れた喜びと平安は、100%あなたに届いているでしょうか。あなたは不平や不満、悲しみや苦しみの重荷を主のもとにおろせずに苦しんでいらっしゃいませんか。もしそうならば、あなたの信仰の管が、詰まっているのかもしれません。その管を詰まらせるものは、罪であります。
今日は、主からその掃除の仕方を教えてい頂きたいと思います。主から豊かな恵みを頂くための掃除です。それは、私が恵まれるためだけではありません。主から受けた恵みは、私達を通してイエス様の救いを知らない人々へと流れていくのです。あなたが通り良き管となる為にも、まず、主とつながるパイプを掃除していただきましょう。
バプテスマのヨハネはまさにその必要性を人々に伝えに来たとも言えるでしょう。その方法は罪の告白と悔い改めであります。
聖書は悔い改めに、「向きを変える」と言う言葉を使っています。つまり、神様に背を向け、罪の世界に心と耳を傾ける生き方をやめて、神様の方に向き直りなさいと語っているのです。
悔い改めて神様の恵みを受け取るための、大切な三つのことを今日この所から学びましょう。
T.主からの忠告に耳を傾け指示をいただきましょう。(2節)
「呼ばわる者」としてのヨハネの役割は、キリストが来られることを伝えることと、人々に忠告と警告をすることでした。どのように悔い改めるべきなのか、その人が神の御前に何が間違っているのかを示すことでした。ルカによる福音書3章10〜14節では、ヨハネが群衆や取税人、兵卒らに実際に悔い改めの指導をしている場面があります。
では、私達はどのように主からの忠告や指示を頂けばよいのでしょうか。それは、神の言葉である聖書の御言からであります。テモテへの第二の手紙3章16〜17節にこのようにあります。
「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導く
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のに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。」
聖書の御言と、自分の心の姿を毎日照らし合わせて見ましょう。時として神様は、聖書の御言の確かさをあなたの置かれている社会や未信者を通して教えられることもあります。
諏訪の新会堂を購入して間もない頃でした。その年に大雪が降りました。聖日の朝でしたが、私は礼拝前に雪かきをしていました。私はそのかいた雪を、道路の教会が建っていない側に集めていました。すると教会前のアパートの管理人が、突然怒鳴って来て文句を言いました。よく話を聞いていますと、私達が購入した会堂の前のオーナーも同じことをしていたそうです。最悪なことに、その方はアパートの管理人に注意されてもやめなかったのだそうです。話を聞いて、すぐに私は管理人に謝りました。その時に心に思い浮かんだ御言がありました。マタイ5章41節の御言です。「もし、だれかが、あなたをしいて1マイル行かせようとするなら、その人と共に2マイル行きなさい。」
私が雪をかいて積み重ねたのは、道路の5〜6メートルの距離でした。でも御言に従いまして、教会の前のアパートの2カ所の出入り口を含めて30〜40メートルを雪かきしたのです。その後の管理人の態度はまるで別人でした。その方は「さすが教会さんだね。」と逆に感謝を表してくださったのです。その時、主の御言に従って良かったと心から主に感謝いたしました。時には、少々理不尽な思いをさせられることもあるかもしれません。そのような時でも、自分にも非があることを素直に認め、主の御言の教えに従うならば、主が素晴らしい結果を与えてくださいます。
U.神様との良い関係を妨げるものを取り除きましょう。
3節にあります「主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ」と言う言葉に注目しましょう。主の道とありますから「主に従う決断をする心」と言っても良いでしょう。主に従う心備えをせよということであります。
私達の日常生活を振り返って見て、神様との関係を邪魔しているものはありませんか。それは、必ずしも悪いこととは限らないと思います。社会的には重要な立場や、仕事や学校であるかもしれません。家族や友人に関わることでしたらどうしたらよいのでしょうか。
今年は、大震災の影響から節電そして土日出勤と、社会だけではなくクリスチャンにとっても大変な年となりました。きっと日本中のクリスチャンが、主に導きと解決を求めて祈っていることでしょう。現に私達の教会でも土日出勤となり、午前の礼拝に出られないので、夕拝に出たり祈祷会に出たりとそれぞれが様々な工夫をして、集会を守っておられます。
諏訪にホテルで働いている方がいました。休みが不定期であったため、日曜礼拝はほとんど出席することができませんでした。しかし、その方は必ず、夕礼拝に出たり、休みの日や早く帰宅した夜に礼拝をしに教会にやって来ました。
ここで誤解をして頂きたくないことは、礼拝を頼んでくる方が立派とか、頼まない方は信仰が弱いとか言っているのではありません。あきらめないでほしいと言っているのであります。
主に祈り求めるならば、必ず道は開かれます。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しな
さい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。すべて求める者は得、
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捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。」(マタイ7章7〜8節)と聖書にあるとおりであります。あきらめないで祈り求めて行くならば、主御自身が邪魔するものを排除する方法を教えてくださるのです。そして、あなたの進む道は、必ず主の御助けによって開かれていくのであります。
V.罪を告白し悔い改めましょう。
6節に、「罪の告白をし」とあるように、主に自分の罪を告白いたしましょう。罪は心のホコリのように、放置しておけば積もり積もっていきます。ただの綿ボコリでも、長い期間放置しておくと、簡単には取りづらくなりますね。罪も同じであります。今日おかした罪は、今日の内に主に告白して、赦して頂きましょう。そうしないと、あなたの良心は曇って鈍くなり、正しい判断力が衰えて、罪の束縛から解放されるのに時間がかかることになるかもしれないのです。そのような状態に陥ったとしましてもあきらめないで、イエス様の十字架を仰いで罪の告白してください。イエス様の十字架の血潮であなたの罪はゆるされ、必ずあなたを雪よりも白くしてくださるからです。
そして、6節の最後に「バプテスマを受けた」とありますように、罪の告白には具体的な行動が伴います。具体的な行動とは、罪から離れると言うことであります。告白しましても、同じ罪の中にとどまり続けるならば罪の告白も、悔い改めもあなたの生活の中で、何の実も結ぶことはできないのです。例え一度離れたのに、また罪を繰り返してしまったとしましても、主に告白し罪から離れてほしいのであります。罪の告白と悔い改めは、あなたの人生を、実り豊かなものへと変える力があるのです。
イエス様は私達に、神の愛と恵みをあらわす通り良き管となってほしいのであります。その為に、私達の罪を、十字架の御前で告白し悔い改めることを求めておられるのです。
あなたが主の御前に悔い改めていく時、徐々にであるかもしれませんが、イエス様の愛によって変えられてまいります。その姿を通して、人々はキリストが生ける神であり救い主であることを知るでしょう。
今日あなたが、イエス様の十字架の御前に日々罪の告白と悔い改めをしているならば、是非知ってください。あなたが通り良き管となってキリストを証しするために、主が豊かな恵みをもって守り、導き、支えて下さるのです。
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