聖日礼拝

 

説教者 山本憲治                                                              2011.8.14

聖書個所 マタイによる福音書5章3節

「イエス様を信じる幸い」

 

 ある定年間近の会社の重役の方が、私にこのように言われました。「あなたは幸せです。うらやましい。」と、何故そのように思われるのかを尋ねてみますと、このように答えてくださいました。「私はあと数カ月で定年になります。その定年の日を境に、私が今日までこの会社の中で築き上げてきたすべての地位や名誉を失うのです。」「定年後は、会社は私を見向きもしないでしょう。そして私のいたポストは誰か違う人が納まるのです。」「私の代わりは幾らでもいるということです。みじめなものです。」「それに比べてあなたは、一生涯この道を生きることができる。」「あなたの信じている神様は、決してあなたを見捨てることはないのでしょう。」私はこの方に、その通りですと答えました。そして「イエス様はあなたのことも、決して忘れることも見捨てることもしないお方です。」とイエス様の十字架の愛をお伝えいたしました。その方はイエス様を受け入れ「定年が新しい人生の出発の日となった。」と心から喜ばれたのです。

この方はその人生の大半を、一つの会社に捧げました。確かに地位や名誉、そして多くの収入を得ましたが、会社人生の最後に全てを失うことを知った時、その手に残ったものは空しさだけでありました。しかしその空しさが、彼が本当の幸せを求めるきっかけをつくってくれたのです。その結果として、元重役の方が手に入れた本当の幸せは、イエスキリスト様だったのです。

 この世の富は、生きるために必要であり、人生をある意味豊かにしてくれることでしょう。しかし、私達を心から幸せにしてくれるのは富ではありません。それは、私達の霊と魂に、愛に満ち溢れた命と心の平安、生きる力を与えることのできるお方を知ることであります。そのお方こそ、主イエス・キリスト様なのです。

 

今日は山上の垂訓から八つある幸いの第一番目を取り上げ、イエスキリスト様が与えてくださる幸せが、どのようなものなのかを教えていただきましょう。

 

1.心の貧しい人たちは、幸いである。

 イエス様は、この幸いをどの様な人々に語っているのでしょうか。5章の1節に「弟子達がみもとに集まってきた」とあるように、まず弟子たちに対して語った言葉であります。マタイ4章23〜25節を見ますと、多くの群衆がイエス様に癒しを求め、御言葉を求めて従ってきたことが分かります。イエス様は「あらゆるわずらいをお癒しになった。」とあるように、人々の病を癒し様々な悩みや苦しみによって、押しつぶされてしまった人々の重荷を背負って、救いを与えて下さったことが分かります。決して幸せとは言えないような人々に対してもイエス様は、「あなた方は幸いです。」と言われたのです。この主の御言葉は、富と健康、この世の繁栄こそが神の祝福と考えていた人々にとって常識を覆す驚きの言葉だったと思います。

イエス様の言われる「心の貧しい」とは一体どういうことなのでしょうか。日本語訳では「心」と訳されていますが、本来は「心」というよりも「霊」と訳す単語だそうです。霊とは、人と神様とが交わりを持つところであります。神様から命を注ぎ込んでいただく場所、主の癒しと平安を感じる部分であります。そこが貧しいのですから、このようにも言うことができると思うのです。 

「神様との交わりが乏しく、もしくは交わりがない為に飢え渇いている人は幸いです。」と、

物質的であろうと霊的であろうと、何故、貧しくなることが幸いなのでしょうか。これは当時の人々だけではなく、私達にとっても疑問に思うところだと思います。むしろそのような疑問を持たせるために、イエス様はこの御言葉を語られたのかもしれません。

人は、いつの時代も物質的繁栄を求めてきました。それこそが幸せと繁栄の証しであると、長い間思われてきたからです。

長年に渡ってアセンブリー教団からフィリピンへの宣教師として遣わされた、佐々木先生の話をいたしましょう。

宣教師が初めてフィリピンの山岳地帯に、宣教に入った時のことです。そこに住んでいる山岳原住民達のあまりにも貧しい生活にショックを受けたそうです。そこで宣教師たちは、彼らを支援して、宣教師が思うところのよい生活水準に上げてあげようと考えました。しかし現実は、宣教師があまりにも多くの物資を突然持ってきて、長期に渡って支援してしまったために、多くの原住民が自ら働かなくなってしまったのです。その為に、彼らの状態は支援以前よりもひどく自堕落で貧しいものとなってしまったのだそうです。それから数十年後に、佐々木先生が山岳原住民に福音を伝えるために日本から遣わされました。そこであまりにもひどい現状を知った彼は、宣教師たちに支援をやめるように説得し、そのことが聞き入れられました。そして、自ら山に入り原住民達と共に暮らし共に働きました。彼が原住民に提供したのは、イエス・キリストの福音だけだったそうです。

それからまた数十年後に、私の母教会のクリスチャン大学生達が佐々木先生とチームを組んで、山岳地帯の教会に奉仕に行きました。大学生らは、助けるために奉仕に参加したつもりでしたが、全員悔い改めて日本に帰ってきました。確かに原住民の暮らしは、日本の大学生とは比べようもないほど貧しく見えます。しかし、そこに住む子供からお年寄りまで、どの人の目を見ても幸せそうで輝いていることにショックを受けたのだそうです。それに比べて、自分達の方が先進国に住んでいるからと、おごりたかぶった考えで奉仕に言った自分達が恥ずかしかったと証しをしていました。

 

 原住民の方々をそのように変えたのは何だったのでしょうか、それは、宣教師の物資ではありませんでした。イエス・キリストの福音だったのです。イエス様こそが、心の貧しい私達を全てにおいて恵み豊かにしてくださるお方なのであります。

 

 今日あなたは主イエス様の御前に、キリストの恵みで生かされている幸いな者であると自覚しておられるでしょうか。今あなたの置かれている状況は、大変つらく厳しいものかもしれません。

 弟子達がある時、一人の目の悪い男性を見てイエス様にこのように尋ねました。「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか

本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。」 ヨハネ9章2〜3節

ですから、私達にふりかかって来る様々な苦しみや悩みは、イエス様の御愛と豊かな主の恵みを知る為にあるのです。それは、ただ神の御業が、私達の上に現れるためなのであります。

 

2.天国は彼らのものである。

 天国が私達のものとなるとは、どういう意味なのでしょうか。「天国」は、原語で直訳しますと「天の王国、天の支配」となるようです。その言葉にあるように、天国とはまさに神の王国、神様の支配する所と言ってもよいと思います。支配と言いましても、イエス様の支配は私達を縛るもの

ではなく、むしろ罪から自由にするための支配であります。主が私達に与えようと願っていることは、次の御言葉にある通りです。                 ヨハネ15章9〜11節

15:9  父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛の内にいなさい。

15:10 もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわた 

しがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである。

15:11 わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなた

がたの喜びが満ちあふれるためである。

主の支配される天国をいただくとは、まさにこの神様の愛の中に生かされることであります。そしてそれは、私達の中に「イエス様の喜びが私の中に宿り、喜びが満ちあふれるためである」と主は言われるのです。神の支配に生きるとは、素晴らしいことだと思いませんか。

 

私が救われて、教会献身者として諏訪開拓に教会から遣わされた初期のころ、土曜日に子供達を相手に公園伝道をしていたことを以前話したと思います。私は、公園伝道を始めるにあたって、色々と計画を立てていました。正直当時は公園伝道に関しましては自信を持っていたのです。開拓を始めて半年には50名の子供達を集めることができると考えてもいました。

公園伝道を始めましたが、何と第1回目は予定していた場所どころか、私が歩く所はどこにも子供達が見あたらないのです。仕方なく教会に引き上げ、週末に諏訪から八王子の母教会に戻りました。第一回目の母教会での報告で私は祈りの要請をいたしました。しかし、それも2回3回と同じ報告が続きますと、さすがに辛くなってきます。私は2か所で公園伝道を始めようとしていたのですが、6回目になっても誰もいないのです。一つ目の公園からもう一つの場所に移動する中、私は落ち込んでうなだれて祈っていました。「イエス様どうして一人も子供がいないのでしょう」すると私の心にこのような思いがわいてきました。「伝道は誰の御業なのか。」はっとさせられました。そうです、伝道は主の御業であります。イエス様と共に行ってこそ成功する神様の御業なのです。

私は悔い改めました。そしてこのように祈ったのを今でも覚えています。「イエス様どうか愚かな私を許して下さい。もう集まる数は気にしません。あなたの御計画に従います。多くの数を集めるより一人の魂を愛することに徹します。一人でもよいのです。主が与えてくださる一人の子供を、前から歩いて来させてください。私はその子を心から愛します。」祈り終えて、私は顔を上げました。前方5〜60mくらいでしょうか、一人の子供が歩いて来たのです。私は喜びと感動のあまり、走ってその子の所に行きたい気持ちでした。でも怪しまれてはいけないので、はやる気持ちを抑えてその子に一歩一歩近づきました。そして、その子に紙芝居を見ませんかと言いますとその子は、友達も誘ってくると誘いに行ったのです。待つ間私は主に心から感謝をいたしました。数分ほど待ったでしょうか。一人か二人の友達を引き連れてきてくれることを期待して待っていましたら、なんとあちらこちらから子供達が出てきたのです。初めて行った公園伝道で24名の子供達にイエス様のことをお話しすることができました。そして、神学校に行くまでの2年半で53名の子供達に福音を伝えることができたのです。

その内一つの家庭から、子供のお母さんが救われました。今はすわシオンキリスト教会の役員として活躍しています。また、その長男の奥さんが救われ、同じ教会の日曜学校の中高生科教師として奉仕しておられます。

主のなさることは本当に素晴らしく、主に従って行くことに間違いはありません。

 

 主は私達を愛しておられ、豊かな恵みを持って祝福して下さるお方なのです。生きていれば、確

かに辛く苦しい場面にも出くわすこともあるでしょう。しかし、主はその時こそイエス様を求め、主の恵みを受け取る時であると言われます。

イエス様を信頼して、主の愛の御手の中に飛び込んでまいりましょう。イエス様しか与えることのできない素晴らしい幸せを主御自身から頂きましょう。