聖日礼拝

 

説教者 山本憲治牧師                             2011.8.21

説教個所 マタイによる福音書5章13〜16節

「主の愛に満たされた器」

 

 今日の聖書個所に「もし塩の効き目がなくなったら」とありますが、塩気がなくなる塩などあるのでしょうか?まず日本では目にすることはないと思いますが、イスラエルにはそのような塩が存在するのだそうです。長期にわたり、雨風や強い日光に当たると塩気がなくなってしまうとあります。そのようになってしまった物は、使い道がないだけではありません。そのままにしておきますと、土地をやせ衰えさせ不毛の土地にしてしまうとありました。ですから、塩気のなくなった塩は、人が往来する道端に捨てられ踏みつけられるのだそうです。

私達も塩気を失った塩のように、何の力も影響力も持たず、人から煙たがれる様なクリスチャンにはなりたくないものであります。しかしそれは、何か立派な大きなことをしなさいと言うことではないと思うのです。

M子さんと言う名の女子大学生がいました。彼女は特に目立つ存在でもありません。しかし、教会内外を問わず、彼女は愛される存在でした。その理由は、彼女がその場にいるだけで何故か場がなごむからです。M子さんと同じ大学に通うもう一人の姉妹が、ある時このようなことがあったと証ししてくれました。

大学のサークルでのことです。大学祭に向けての会議をしている時に、議論が白熱しすぎて険悪な雰囲気になってしまいました。そこに、M子さんが遅れて部室入ってきたのです。彼女はその場の雰囲気をほとんど気にすることなく椅子に座り、テーブルにあるお茶を入れお菓子をほおばり始めたそうです。 

周りはそんな彼女をしばし唖然と見つめていましたが、彼女が「あ〜美味しい」と一言発しますとその場が大爆笑になってしまったのだそうです。そんなM子さんに部長は、会議の内容を話し彼女にも意見を言ってほしいと頼みました。すると彼女は「それは、神様にお祈りすればいいのよ。」と言いました。部長は少々とまどった感じでしたが、「じゃ。祈ってよ」とM子さんに頼むと彼女は大胆にイエス・キリストの名によってその場で祈ったのだそうです。その後の会議はトントン拍子に進み、その年の大学祭は今までにないくらいに楽しい最高の大学祭になったと言っていました。

M子さんは、何時も教会に来るとまず兄弟姉妹の皆に挨拶した後、必ず会堂に座って祈り、神様と交わりをするのです。そんな彼女の口癖は「だからイエス様大好き」でした。

イエス様の愛をいただいて、その愛に満たされ、イエス様を愛すること、人を愛すること、これこそがクリスチャンとして人々の心を動かす力の源なのです。主の愛に満たされた器にしていただこうではありませんか。

今日のこの個所から、神様の愛に満たされた器にしていただくことを教えていただきましょう。

 

T.あなたは地の塩である。(13節)

 信仰とは、神様の御言を信じること信頼することです。そして御言は、私達に対する神様からの約束でもあります。ですから、あなたがその約束を信じて従い歩むならば、その御言の恵みを、あなた自身の上に主が実現してくださいます。主は「あなたは地の塩である。」と言われるのです。

「地の塩」とはどのような存在なのでしょうか。まず塩について考えてみましょう。

 塩の役目はまず何と言いましても、味付けであります。あなたの人柄や性格は決して悪いものではないかもしれません。しかし、それをキリストの愛で覆っていただくなら、もっと人々の為に役に立つ主の器にしていただけるのです。

そうするならば主は、あなたと言う器を通して、キリストが与えてくださる豊かな愛と喜びと平安で、あなたの周りにいる人々の心をも満たしてくださいます。また塩には消毒や殺菌効果もあり、食べ物の腐敗を守る防腐剤の役目があります。

 あなたはイエス・キリストの愛によって、人々が罪のために腐敗していくのを食い止める存在となることができます。何故なら罪を許し、救ってくださる主イエス様の十字架を証し出来るのは、イエス・キリストを信じて救われた者だけだからです。

 このように、キリストの愛によって味付けされた人となるにはどうすればよいのでしょうか。それは、イエス様を第一に考える生活をすることであると言えるでしょう。

毎日心にあることを祈り、何でも主に語りかけて下さい。御言に親しんで、主の御声に耳を傾ける時間を作ってください。御言を心から信じて、実生活での考え方や行動の基準にしていただきたいのです。聖書が罪だと示すことから離れる決断をしましょう。

あなたは一生懸命やっているのに、周りにあまり理解されず、人間関係が上手くいっていないということで悩んでおられるかもしれません。そのような時には、イエス様の愛を基準にして考えてください。 コリント人への第一の手紙13章1〜7節

「たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。

  愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。

不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。

不義を喜ばないで真理を喜ぶ。

そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。」

この主の愛の御言を基準として、自分を見つめ直し、人々に対する自分の心の在り方や、態度などに間違いはないか、祈って主に教えていただきましょう。主は、あなたに御自分の愛をおしみなく与えてくださるお方です。キリストの愛と言う塩味を毎日主から頂きましょう。

 

U.あなたは世の光です。(14〜15節)

 あなたは自分の中に、人々を照らす希望の光、真理の光、愛に満ち溢れた命の光であるイエス様を宿していることを自覚しておられますか。海辺の岸壁に立つ灯台は、それ自体ではただの塔であります。見張り台や展望台くらいにはなるでしょうが、それ自体では灯台の本来の役目は果たせません。灯台がその大切な役目を果たすのは、その塔の中に光が灯る時であります。私達もイエス・キリストの光が私の中に輝いてこそ、自分が生まれてきた本来の目的も、救われて与えられた使命も果たすことができるのです。それはイエス・キリストの救いを伝え、唯一真の神である主の素晴らしさ、その愛の広さ深さ豊かさを自分の実生活を通して表していくことであります。

5章14節に「山の上にある町は隠れることはできない」と書いてあります。あなたが本当に主を信じているのならば、罪の暗闇で覆われているこの世の中で、その光を隠しておくことなどはで

きないとおっしゃっているのです。次の御言がその理由を説明してくれると思います。

この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」  ヨハネによる福音書1章4〜5節

この命と光とは、イエス様が十字架によってなしとげて下さった、神様との愛の関係の回復であります。それは、主から頂くことができなくなっていた祝福と恵みを頂ける者となったということです。十字架こそが人々の心に希望をもたらす光なのです。十字架の光は罪から来る悩みや苦しみ、悲しみや苦痛がもたらす暗闇のような心を明るく照らす光なのです。

 そして、その十字架の愛の光は、私達を通してのみ表されることを聖書は語っているのです。

 

V.人々が天の父をあがめるようにしなさい。(16節)

 イエス様は、「あなたがたの光を人々の前に輝かし」「あなた方のよい行いを見て」天にいます父をあがめるようにしなさいと言われました。これはイエス様の愛と導きの中で信仰を働かせ、力をいただき、主のわざに励みなさいと言うことでもあります。主を信頼して主のわざに励む者に必ず報いてくださるお方だからです。主は立派な行いをすることを求めておられるのではありません。大切なことは、たとえ失敗したとしても、間違いを犯したとしても、あなたが主から目を離さないで主に従って行くことであります。

 16節の御言をもう一度見てください。ここの目的は「人々があなたのよい行いを見て」とあります。よい行いとは何でありましょう。道徳的に正しいこと、人々から賞賛されること、法律を守っていることでしょうか。それも大切なことではありますが、ここで教えられていることは、あなたが神に従って歩んでいるかどうかということであります。

 主があなたに求めておられることは、主に従って生きることなのです。ですから、失敗や間違いを恐れないで、あなたの立場がどのようなものであっても、あなたの中に輝いておられる主イエス・キリスト様の光を人々に輝かせることをやめないでください。クリスチャンであることを証しすることを恐れないでください。人生には様々なことが起きてまいります。主に従って生きるクリスチャンにとって、自分が置かれている状況が如何なるものであろうとも、その中で主の光を人々に輝かせることができる者に、主は変えて下さるお方なのです。

 

まとめ

 主は私たち一人一人に、素晴らしい計画を持っておられます。それは、「神様の愛に満たされた器」となることです。今日の御言はあなたが、そのような器になるという主からの約束の御言であると受け止めましょう。

大切なことは、あなたの中に主イエス様の恵み溢れる十字架の愛が、光輝いていることをしっかりと自覚して生きることにあります。ですから主イエス様から目を離さないで、どの様な状況下にあっても、主を信じていることを証し続けていきましょう。主御自身が私達を通して、主の栄光を表してくださるからです。

今日「地の塩、世の光」として私を用いて下さいと祈りましょう。そして、イエス様の愛の光を輝かせる器として歩ませていただく決断をいたしましょう。