ヨハネによる福音書13117

 

                                          「手ぬぐいクリスチャン」

森本亮介神学生

 みなさんは億万長者のビル・ゲイツをご存知ですか?世界一の大富豪として有名なゲイツ氏ですが、もし、ゲイツ氏がマイクロソフト社の社長の肩書き、そして彼の持っている全財産を捨て、アフリカの質素な村で30年間生活しなければならないのであれば、ゲイツ氏はどのような反応をとるのでしょうか?億万長者の豪華な生活から一転、アフリカの村の質素な生活へ移るのには相当な覚悟が必要になります。裕福であれば、裕福であるほどより一層、質素な生活が厳しいと感じるようになるのかも知れません。

 イエス・キリスト様は、天地を創られた全能の神の独り息子でありました。ヘブル12 では、「神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。」と書かれており、イエスが万物の相続者、天地宇宙の創造者なる神の独り息子であり、圧倒的な権力者であるということがここでは記されています。その主イエス・キリスト様が十字架につけられ殺される前に弟子たちになさったことは「足を洗う」という行為でした。当時では足を洗うのは「奴隷」の仕事でした。それを、主であり、大先生であり、圧倒的な権力者である、イエス様ご自身が行なったのです。

 この場面では、イエス様が3年間共に時間を過ごして来られた愛する弟子たちと共に食事をしています。その中でイエス様は上着を脱ぎ、その後に手ぬぐいを取り、弟子たちの足を洗い始めました。上着というものは通常、偉い人が身に付けているものであります。結婚式やビジネスの交渉の場などにおいては、スーツのジャケットは上着として欠かせないものです。上着はそのような意味では、美しさ、フォーマルさ、栄光、を表すものです。その半面、「手ぬぐい」は「上着」とは正反対の印象を持っています。手ぬぐいは、汚れをふき取るものであり、フォーマルな場所で身につけるものではなく、労働者やしもべが通常用いているものであります。

主であり、神の御子であるイエス・キリスト様は、天においては神の栄光という衣に包まれていました。その栄光のイエス様は、この場面において、上着の衣を脱ぎ、手ぬぐいを取られました。そして、一人のしもべとして弟子たちの足を洗い始めました。足は汚いものであります。しかし、イエスはその汚さを理解し、受け入れ、弟子たちの足を手ぬぐいで洗われました。

 

なぜイエスは弟子たちの足を洗ったのでしょうか?それは私たちに「人を愛する」ことを教え、実践させるためであると【15節】に書かれています(13:15 「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」)

この箇所でイエス様は、キリストのコミュニティー「共同体」(教会、家庭など)の中において、キリスト者が持つべき姿勢について教えているのであります。さて、ここで疑問。イエス様は洗足を「社会」に出て、「公な場所」で行なったのでしょうか?違います。イエス様は洗足を弟子たちの間(イエスを信じる共同体の中で)行ないました。【14節】には、「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」とあり、ここで対象になっているのは明らかに、弟子たち(イエスを信じる者)であります。クリスチャン同士は「互いの足を」洗い合う者でなければいけないのです。

キリストの共同体(教会)の大切なキーワードは「罪の赦し」であります。よく、「クリスチャン(信徒、牧師等)はパーフェクトな人たちであり、誤りが一切無いない」と勘違いをする人が世の中にいます。「それ故、教会では人にガッカリすることも無ければ、一切無問題がない。また、人間関係も常に良好であり、つまずきはクリスチャンの間には一切無い!」と思っている人もいます。この考えは間違っています。クリスチャンは人間です。人間である以上、必ず弱さや汚さを持っています。私たちが人間である以上、学校や職場と同じ様に、つまずきは教会や家庭でも絶対に起きるのです。

イエスの弟子たちも人間であり、汚さや弱さを持っていました。弟子たちの間では争いや、つまずきがありました。しかし、イエス様は弟子たち全員(ユダも)の汚い足を洗いました。イエス様の心の中には洗足を妨げるものは一切ありませんでした。なぜなら、イエス様は汚くて弱い人間に、「救い」をもたらすために天の栄光を脱ぎ捨て、僕として地上に来られたからであります。

手ぬぐいクリスチャンとしての私たちは、何をしなければならないのでしょうか?主を信じ、主に習うものとして(主の共同体に生きる者として)、まず私たちは、@上着を脱がなければいけません。そしてA手ぬぐいを取らなければいけません。私たちがいつまでもしがみ付いていたい、脱ぎたくない上着とは、どのような上着でしょうか?人を憎しみ続けていたいという名の上着でしょうか?「この人だけは絶対に赦せない」という赦さない心に身を包み続ける上着でしょうか?「こいつだけには軽んじられたくない」というプライドや肩書き、身分というものを手放せない上着でしょうか?「こいつの足なんか絶対に洗わないぞ!」という上着でしょうか?私たちには様々な脱ぎたくない「上着」があると思われます。

万物の相続者であるイエス様はどうだったでしょうか。イエス・キリスト様はその絶対的である天の栄光と権威を脱ぎ捨て、この地上にやって来られました。しかもやって来られたのは2000年前の貧しいイスラエル地方です。医療も発展していない、慢性的な栄養失調を人々が抱え、平均寿命が40歳程度であるような社会です。栄光の神の子であるイエス様は、その栄光の衣を脱ぎ捨て、手ぬぐいを取り、しもべとして、そして人間として、私たちに神の愛を届けてくれたのです。 

私たちキリスト者もイエスの愛に習うものとして同様に、神の愛を届けることを妨げているいかなる「上着」を脱ぎすて、しもべとして手ぬぐいを取り、愛を人々に届けなくてはいけないのです。そして私たちはこれをイエス・キリストを信じる共同体(教会、家庭)において、「実践」しなければいけないのです。互いの足を洗いあう「手ぬぐいクリスチャン」として愛し合い、祈り合いながら前進するキリストの共同体(教会、家庭)であり続けたいと願います。