聖日礼拝

 

説教者 山本憲治                               2011.9.4

聖書箇所 マタイによる福音書5章17〜26節

「主と共に築き上げる良い人間関係」

 

 30年ほど前になりますが、Dさんと言う方がおられました。彼はとある会社の工場主任をしていました。そんな彼に、ある時出世の話がきたのです。それは、イタリアにある支社の工場に行って技術指導をすることでした。見事に勤め上げたならば、日本で最新式の工場で工場長を務めることになっていたのです。彼は出世と、初の海外勤務と言うこともあり希望にあふれていました。

 クリスチャンだったDさんは、祈りつつ主に期待をしてイタリアに行きました。しかし、そこで彼は、日本とは違うイタリアのとんでもない習慣に悩まされることになります。それは何かと言いますと、イタリアの従業員達は残業をしないのです。朝は時間通りに来て準備を始めます。「始業30分前」という言葉は通用しなかったそうです。終了はどんなに作業が中途半端でも、作業を終えて帰ってしまうのです。極めつけは、昼食時間です。シエスタと言う昼寝付きで2時間休むのだそうです。日本では考えられない状況が30年前のイタリアでは行われていたのです。

 出世して今や技術指導の責任がかかっているDさんは、なかなか上手くいかない状況にいらだちを隠せませんでした。しばしば、工場の作業員とぶつかり合ったそうです。どんなに、日本のやり方を説明してもイタリア人の作業員達は理解してくれなかったのだそうです。ぶつかればぶつかるだけ、ますます作業員との溝は深まるばかりでした。

 ある日Dさんは、日本の会社からイタリアの工場の状況があまりよくないと、電話でさんざん怒られ注意を受けました。彼は、昼食時に一人屋上で主に祈ったそうです。「神様どうして、彼らは理解してくれないのでしょうか。日本のやり方でやれば直ぐにでも工場の生産が上がり、彼らの給料も増えるのに、私には理解できません。」つぶやきのような祈りであったそうですが、彼が祈っていますと、何やら工場の裏庭が騒がしくなってきました。立ち上がって庭を見ますと、作業員達の奥さんや家族がお弁当を持って集まってきていたのです。彼らは実に嬉しそうに、昼食の準備をしていました。その内の一家族が、食事前に祈りを捧げていました。それを見た時、彼の目から大粒の涙がこぼれました。家族を日本に残し単身赴任で来ていた彼は、とても惨めになったそうです。

 そんなDさんに主は、御言をもって優しく語りかけて智恵をくださったのです。それは、マタイ7章12節の御言葉でした。

    「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。

 彼はその御言葉を通して、初めて自分が日本側の要求を押しつけるだけで、彼らと何一つ語り合うことも、分かち合うこともしていない自分に気が付きました。その日から彼は押しつけるだけのやり方をやめて、作業員達との付き合い方を改めました。

 誰よりも早く出社して、作業員が作業しやすいように作業場を掃除しました。昼食は毎日違う

家族と座り、作業員だけではなく家族ともコミュニケーションを持つようにしたそうです。そして、

作業後は、独身の社員らとの食事に付き合い交わりを持ったのです。そんな交わりの中で、次第に彼らと打ち解け信頼されるようになりました。そしてわずか1年後、彼の工場は予定よりも多くの利益を上げる工場になったのだそうです。

  パウロを通して主は「神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。 」(コリント第二5章18節)と言われました。私達は主イエス様の御言を信頼し、主と共に歩み進む決断をするならば、自分の周りにいる人達と平和な良い人間関係を築き上げて行くことができます。今日のこの箇所より、聖書の語る人間関係について共に学んで参りましょう。

 

T.純粋な混じりけのない聖書の御言を味わいましょう。(17〜21節)

 今日の聖書箇所の17節で、イエス様は「わたしが律法や預言者を廃するためにきたと思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。」と言われています。イエス様が成就すると言われているのは、旧約聖書の御言のことであります。             

しかし21節にあります殺すな、殺す者は裁判を受けねばならない。と言うこの言葉は、

出エジプト記20章13節の「あなたは殺してはならない」と言う御言と

出エジプト21章12節の「人を撃って死なせた者は、必ず殺されなければならない。」と言う御言を、律法学者やパリサイ人達が自分たちの都合のいいように変えてしまった言葉であると言われています。つまり、純粋な旧約聖書からの御言ではなくなっているのです。

 18〜19節を見ますと、「よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。

とあるように、イエス様ははっきりと御言を自分たちの都合に合わせて、変えてしまうこと自体が神の御心に反するとおっしゃっているのです。神の律法を廃してしまっているのは、むしろ律法学者やパリサイ人であるとおっしゃっているのです。

 私達も、正しい聖書理解をするように心がけ気を付けましょう。自分勝手な都合の良い解釈や読み方をなさらないように心がけてください。一番良い読み方は、やはり新約なら新約で初めから1章1章読み進めることをお勧めいたします。また、毎朝の早天祈祷、聖日礼拝、水曜の祈祷会、ファミリーなどで御言の学びや分かち合いをいたしますので、教会の集会にはできるだけ多く出席してください。正しく御言を学んでいく時に、私達は聖書の御言から神様の智恵をいただいて良い人間関係を築き上げる方法を学んでいくことができるのです。正しく学んでこそ主の御言に導かれて行動していくことができるのです。

 

U.主イエス様が解き明かされた御言の真の教え。(22節)

 22節からイエス様は、厳しいことを語っておられます。実際に殺人を犯さなくても心の中で腹を立てたり、「愚か者」「ばか者」と人をののしった時点で、殺人と何ら変わらないとおっしゃっているからです。人に対して、恨みを抱いたり、怒ったり、嫉妬したりして苦々しい思いをしたことのない人はいないのではないでしょうか。このように人に対する悪い感情から、愚かな行動が起

きてくるのです。その良い例が聖書に出てきます。

 創世記4章にあります「カインとアベル」の話の中で、二人は神様に捧げ物をします。弟アベルは飼っている羊から初子と肥えた良いものを捧げたので主に喜ばれます。一方兄のカインは農夫でその実った物を捧げましたが、神様に受け取っていただけませんでした。カインは憤ります。問題はカインの捧げ方にありました。アベルのように一番良い物を神様に捧げれば良かったのです。

「あなたの捧げ物をする態度を悔い改めて、罪から離れなさい」と神様から直接忠告があったにもかかわらず、カインは素直に認めませんでした。その結果、彼の憤りは弟アベルへの嫉妬に変わり彼を殺してしまうのです。カインは人類初めての殺人を犯してしまいました。それは、間違った感情から始まったのです。

 イエス様は、表面に出た行動だけを見ておられるお方ではありません。むしろもっと根本的なところにある、動機や心の状態をご覧になっているお方なのであります。

 私達は主が、私達の心の中をいつも注目されているお方なのだと言うことを、覚えておかなければなりません。しかし、それは裁くためではありません。主はカインに大事に至る前に忠告されました。私達にも取り返しのつかない事に発展する前に、主は色々な方法で教えたり、忠告してくださっているのです。カインはそれを聞き入れませんでした。

 親が愛する子を守る為に叱ったり、忠告するように、私達の神様も私達を愛しておられ、御言を持って私達に愛の忠告や教えを与えてくださっています。イエス様の厳しさは、愛故の厳しさなのです。一時の感情にまかせて、取り返しのつかない事にならないように御言に聴き、学びましょう。カインのように心を頑なに閉ざして罪を犯す事がないように、主の御声に聞き従いましょう。

 

V.主の導きの中で暖かい人間関係を築き上げましょう。(23〜26節)

 イエス様は礼拝を捧げる前に、兄弟に恨まれていることに気が付いたなら、まず和解をするようにとおっしゃっています。あなたがどんなに信仰歴が長く、熱心な信者であったとしても、恨みや憎しみ等で人間関係にしこりを残すような問題を持ち続けているならば、神様の前に心からの礼拝を捧げることが難しくなっていくでしょう。兄弟姉妹との関係が壊れていくことは、神様との良い関係を築き上げる妨げになるからであります。また、聖書は自分を訴える者がいるとしたなら、これもまたできる限り早く仲直りするように命じておられます。しかし、こじれた関係を修復することは、とても大変なことであります。不可能に見えることもあるでしょう。むしろ、こじれた人とはなるべく関わりたくないものであります。関わらないこと、それが私達にでできる精一杯のことなのかもしれません。しかし、主はマタイ5章20節でこのように言われます。

わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。

 自分の努力の範囲内に留まっているのならば、それは「律法学者の義」と変わらないと主は言われているのです。そうではなく、イエス様は私達の方から積極的に和解に乗り出すことを求めておられるのです。それは、自分の力で行うのではなく、まず主に祈り、信頼し、聖霊の導きの中で力と智恵が与えられることを信じて踏み出していくことであります。これこそが「律法学者の義」を超える「信仰の義」であります。その信仰の義に立たせていただいた時に、神の国が来たような素

晴らしい人間関係をあなたは主と共に築き上げることができるのです。

まとめ

 今あなたが、人間関係で苦しんでおられるのならば、主はあなたがその問題を主の元に持って来ることを待ち望んでおられます。今は問題がなかったとしても主は、これからあなたが主を中心に人間関係を築き上げることを望んでおられるのです。

 主は、あなたを通して十字架の和解を広げ、あなたの中に住んでおられる主イエス・キリスト様を中心に神の国を広げていきたいのです。それは、あなたを中心に広がっていくことでもあります。

 あなたが「主と共に築き上げる良い人間関係」を望むのならば、「そうさせて下さい」と主に祈り、主の御言に従っていく決断をいたしましょう。