聖日礼拝

 

説教者 山本憲治 牧師                    2011.9.11

聖書箇所:マルコ10章32〜45節               

タイトル:「十字架の愛がすべての動機」

 

 

 神様を愛する私達が行動を起こす時、「十字架の愛」が動機となることが重要です。「誰かの為に」と言う言葉は、最もな理由のように聞こえます。しかし、それだけでは弱く長続きはしないでしょう。一つ間違えれば、その言動は愛や思いやりではなく、自分の誇りや自己満足にすり替わってしまうかもしれません。自己義をかざした押しつけになっているかもしれないのです。そのようになってしまう可能性があるのは、私達の中に真の愛が存在していないからであります。

 神様の為であろうと、人の為であろうとクリスチャンは、主イエス様の十字架の愛に突き動かされて動くことを願いましょう。人々は私達が十字架の愛によってそのような行動を起こすのを見る時に、天にいます父なる神様をあがめるようになるのです。

 私達がまだ主を信じない罪びとで、主に敵対しているように背を向けていた時に、イエス様は十字架の死によって罪の贖いと赦しという愛を表してくださいました。

あなたは命を投げ出すほどに価値のある、愛すべき宝のような存在なのだとイエス様はおっしゃって下さっているのです。

 第二コリント5章13〜14節でパウロはこのように言っています。

もし私たちが、気が狂っているのなら、それは神のためであり、気が確かであるのなら、それはあなたがたのためである。なぜなら、キリストの愛が私たちに強く迫っているからである。

パウロは、イエス様が十字架によって示してくださった愛によって、自分がどれほど罪深い存在であったのかを自覚しました。なぜなら「罪びとの頭」と言えるような自分に、命がけの愛を与えてくださった主の恵みと愛の豊かさを人々に伝えずにはいられないと言っているのです。

この十字架の愛のゆえにパウロは気が狂っているのなら、それは神のためであり」と「キリスト気違い」になっているのだと言うのです。そして「キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。」と十字架の愛が「動機」となっているからこそ、神様と人々のために真剣になれるのだと言っているのです。

 

イエス様の十字架の愛をもっと深く知らされていく時に、私達もパウロのように十字架の愛を動機として祈りや行動を起こして行くことが出来るようにさせていただけるのです。

今日のこの個所から、イエス様の十字架の愛を「動機」としていく為の、三つの大切な姿勢を学んで行きましょう。

 

T.父なる神に仕え、父の御心を第一に生きる姿をイエス様から学びましょう。

私たちが仕える者となるためには、誰に仕え、何のために仕え、どのように仕えていくべきなのか、その点をはっきりさせる必要があります。私達は、その点がボヤケてしまいはっきりしていない場合があるのではないでしょうか。

イエス様は、その点がはっきりしておられました。ぼやけていないのです。父なる神に仕え、父の御心が第一でありました。それは、生涯、命をかけて完成する使命であることが、イエス様の御生涯からはっきりと見ることができます。

今日の箇所にあるイエス様の命がけの姿は、弟子たちには恐ろしく見え、不安にさせました。「いったいイエス様は何を考えていらっしゃるのだろう?!」とそのように思わせたことでしょう。しかし、弟子たちの素晴らしいところは、不安を持ちながらも主について行ったところにあります。

 

十字架への道は、彼らには未知の世界でした。同じように、イエス様に従っていく時、これから先のことはたとえ今の私達に聖書が与えられていても、未知のものである事には変わりません。しかし、弟子達がイエス様についって行ったように、私達もイエス様の御足の跡に従い聖書の御言に立って、聖霊様の導きを求めていくならば、主イエス様と共に生きる人生を歩んでいる確信を持たせていただけるのです。

 

 主に仕える者となるために大切なことは、イエス様御自身の姿に見倣い学んでいくことであります。私達もイエス様を第一にして従っていく決心をしてまいりましょう。

 

U.御心の確かさを学び、主の御心の実現を求めましょう。(35〜40節)

イエス様は、私達の祈りと願いを聞いてくださる準備が常にできているお方であることが、35・36節にあるイエス様とヤコブとヨハネとの会話からわかります。しかしこのところから、願いを聞いてくださることと、かなえてくださる事とは別問題であることを学ぶ必要があります。

ヤコブ達の願いは、大切なポイントがずれている願いでありました。イエス様は38節ではっきりと「あなた方は自分が何を求めているのかわかっていない。」と言ておられます。

彼らが求めていたことは、「私達をイエス様と一緒に右と左の十字架に釘付けにしてください。」と言っているのに等しいことでした。何故なら、イエス様が天の御座にもどられる前に十字架と茨の道を歩まなくてはいけなかったからです。その後に、復活と天の御座があるのです。

確かにその後、ヤコブとヨハネは福音宣教に命をかけ、主イエスの御足の跡を歩み殉教しました。殉教までしたのだから、イエス様の右と左に座る資格があるのではと思う方も

いるかもしれません。しかし、問題はそこではなく、主がここでおっしゃりたいことは、右の座であろうと左の座であろうと、どこであろうと、父なる神の愛は変わらないということだと思うのです。

 

父なる神様はいつも私達に100%の愛を降り注いでくださっているお方です。それどころか、ヤコブとヨハネはもちろんのこと、私達一人一人のためにふさわしい神の国の席を、主自らが用意してくださっておられるのです。

 

諏訪にいた時のことですが、私の娘の愛は、スイミングクラブの申し込みにいきました。しかし最初はスイミングに行くことをこの世の終わりのごとく嫌がっていたのです。そしてその不安がピークに達し、スイミングに行かない、私の所にうったえて来ました。

そこで私は、娘に「初めから出来ないと考えていたら何も解決しないよ。まずお祈りして神様に聞いてもらいなさい。」と教えました。ひざにすわらせ、そのままの気持ちを祈らせました。

娘は、「神様、どうか鼻と耳を早く直してください。体力もつくようにしてください。そして、スイミングに行かなくてもいいようにしてください。」       アーメン

一通り祈ると安心したようで、その夜はすっきりした顔で寝ました。次の日は日曜日でした。日中は礼拝等ですっかり忘れていたようです。問題はその夜でした。敦子先生が、「スイミングやるからね。」といったそうです。娘は私の所に、またいやなことを思い出したとうったえてきました。

そこでまたひざにすわらせ祈らせました。祈りの文句はまったく同じです。また安心して寝ました。二日後、家内が「愛ちゃん観念したみたいよ、スイミング行くって。」といってきたのです。さらに二日後、また家内が「あの変わりようは何?早く申し込みに行こうよと言ってきたわよ。」と驚いたようでした。早速、主に感謝をしながら申し込みに行きました。 (これは、娘の許可をもらって例話に使っています。)

娘の祈りは、「スイミングに行きたくない、行かなくてもすむように。」でしたが、主に祈ったあとは「スイミングに行きたい」に変えられました。

主が娘の必要をご存知であったように、主は私達一人一人の必要もご存知なのです。だからこそ私たちは、父なる神の御心こそが素晴らしく、父の御心が実現することを求め、イエス様を通して御心の確かさを教えてもらうことが大切なのです。その確信が、さらに力強く従う力となり、仕える者として成長させていただけるのです。

 

最後に41〜45節になります。

V.十字架の愛をうけて、主と兄弟姉妹に仕えあう者となることを決断しましょう。

 弟子たちは、主に仕えることや互いに仕えあう者となることよりも、己の出世に心を奪われていました。自分の得になることや自分の栄誉を求めていたのです。

 ヤコブとヨハネに腹を立てたのはそのためといえるでしょう。弟子達の心にあったのは「私を見て」あの人よりも私だけを見てほしいと言う思いです。

主は十字架にかかられる前日に、弟子たちに命令であり祝福である言葉を次のように伝えられました。ヨハネ15:12               

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」そして、この御言葉には次のみ言葉が続きます。13節

 「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」

これは自分の力で行うことはとても難しい事です。自分の好きな人や納得行く人に対しては

できるのかもしれません。しかし、イエス様は、神に背を向け、罵倒し、つばを吐きかけ、

ムチで打ちたたき、十字架にはり付けにし、その下でイエス様の着物をギャンブルの掛け金

にしてあそぶような不遜な人々をも愛され、死に至るまで父なる神様に従順であられ、罪人

である私たちに仕えてくださったのです。

 

 

 私達が必要としている愛は、口先だけの薄っぺらな愛ではありません。イエス・キリスト御自身の十字架の愛なのです。

 イエス様のこの愛は、求めるならば誰もが受け取ることができます。この愛の力をいただいて、主の愛があなたの生活にあふれ出るようになりたいのならば、主に従い、主に仕えることをイエス様ご自身に教えていただかなければいけないのです。

 聖霊様は、その主イエス様の十字架の道を歩むことを望む者が、歩めるように助け導いてくださいます。

主イエス様の十字架の愛を共に求めましょう。十字架の愛がすべての動機となり、主に従い、主と人とに仕える者となる決断をいたしましょう。