聖日礼拝
説教者 山本憲治 牧師 2011.9.25
聖書箇所 マタイによる福音書7章24〜27節
「イエス様の御言を聞いて行う者」
私がクリスチャンになって間もない頃、私の母教会の牧師夫人がこのように話してくださいました。「イエス様と共に歩む人生は冒険そのものよ!楽しいわよ。」と・・・。
正直私は、その時それがどういうことなのかよくわかりませんでした。教会生活は確かに楽しい、充実している。しかし、月曜から金曜日までの平日は、仕事や人間関係で、苦労や困難なことで私はいっぱい、いっぱいでした。日曜日の自分の姿と、平日の姿があまりにも違うために「いったい自分は何者なんだろう」と困惑したこともしばしばありました。そのたびごとに「自分をなんとかしてください。日曜日だけではなく、毎日神様への感謝と喜びに満ち溢れて過ごせるようにしてください。」と神様に祈りました。教会の兄弟姉妹達も祈ってくれました。時には、未信者が励ましてくれたこともあります。しかし、一番私を力づけ、支えとなったのは聖書の御言なのです。
「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。」
イザヤ書41章10節
「わたしはあなたの神である。」という御言のとおりに、主は今日まで変わることなく私の神様でい続けてくださっています。もちろん支えとなったのは、この御言だけではありません。沢山の御言を通して、主は私を今日まで導き続けてくださったのです。
イエス様を心にお迎えしてから24年が経ちました。振り返ってみると、確かにイエス様と共に歩んだ人生は冒険の連続でありました。自分で言うのもなんですが、本にしたらかなり面白い本が書けると思います。「事実は小説より奇なり」といいますが、きっと皆さんがイエス様と共に歩まれた今日までの歩みを書き記してみるなら、相当読みごたえのあるものになると思いますよ。
では、私自身はいったいどのように歩んで来たのかといいますと、イエス様を自分の神様として信頼し、主の御言を自分の考えや行動の基準として従ってきただけです。その道は決して平坦とは言えませんでした。挫折と言えるようなこともありました。しかし、そのたびごとに主にすがり、聖霊様の助けを頂いて、その導きの中を歩ませていただいて来たのです。
私の人生はまだまだ続きます。諏訪での歩みは終わりました。今はこの熊谷の地で聖霊の導きの中、主の御言に従い歩ませていただけていることを心から主に感謝して喜んでいます。
今日の御言でイエス様は「わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。」と言われています。一度しかない人生です。イエス様に素晴らしい人生にしていただきましょう。そのためには御言を聞くだけではなく、主の御言に従って生きるとはどういうことなのかを、主に教えていただきましょう。
T.岩の上に家を建てた人、砂の上に家を建てた人。
イエス様は私達の人生を、家を建てることに喩えて話されています。家を建てる時に重要になってくるのが土台であります。どこにどのような土台を据えるのかによって、その家の善し悪しが大きく左右されるからです。そこで主は「岩」を土台とする者は賢い者であるとおっしゃり、「砂」を土台とする者は愚かな者とおっしゃいました。そして、「あなたはどちらを選ぶべきか、よく考えなさい」と私達に語っておられます。
今日の御言でイエス様は「岩」を変わらないもの、「砂」を変わるものに喩えておられます。先週日本は各地で台風による大きな被害にあいました。特に雨による土砂災害と洪水の被害はひどいものでした。報道関係のヘリコプターによって、上空からの映像がテレビに映し出されていましたが、豪雨による洪水や土砂崩れによって地形が完全に変わっているのがよくわかりました。
被害にあった土地は、砂地には見えませんでした。それにもかかわらず、自然の猛威の前にいとも簡単に家も土地も何もかもが流されていました。
災害にあわれた方々が一日も早く生活を取り戻し、家族を亡くされた方々には主の慰めと救いがありますよう心からお祈りいたします。
目に映るこの世のものは、移り変わっていきます。同じように私達の人生観や価値観も、時代の流れや自分の身近な周りの状況の変化によって、変えられてしまうものではないでしょうか。健康やお金、人からの信用や愛情などを土台と考える方もいます。これらは確かに大切であり必要なものでありますが、信頼して土台に出来るほど確かなものではないと思います。銀行が倒産するどころか、国の経済全体が倒れてしまうような時代です。身近なところでは、恋愛は結婚を考える大切なプロセスと言うよりも、ファッション感覚のようにとらえている人が多いようです。このような時代の中で、イエス様は岩のように移り変わることのない確かなものを土台とするようにおっしゃっているのです。
マタイ7章24節に「わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを」とあります。大切なことは主の御言に聞き従う生活をすることです。主御自身と主の御言だけは決して移り変わることがないからです。
「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。」(へブル13章8節)
「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。」(マタイ24章35節)
イエス様は私達にこのようにお語りになっておられます。移り変わることがないお方の言葉だからこそ、時代や状況によって左右されることがありません。私達は失望、落胆させらるようなことが起こっても、絶望に追い込まれることはないのです。この変わることのない確かなお方、主イエス・キリスト様と御言を信頼する決心をいたしましょう。
U.患難は誰にでもやって来る。
マタイ6章25節からの御言の中で、主は賢い者にも愚かな者にも嵐は来ることを前提に話をされています。全ての人に雨や風が吹くように、私達の人生にも様々な試練や患難が襲ってくるものであります。平穏無事の時には、私達はあまり自分の人生の土台のことなど、考えないかもしれません。患難の嵐が襲ってきて倒されない為に、私達の人生を支えてくれるしっかりとした土台を選んで決めておく必要があるのです。
そもそも何故、私達の人生には患難があるのでしょうか。聖書はこのように語っています。ローマ人への手紙5章4節
「患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。」
患難は辛いことでありいやなことであります。しかし、患難は様々な問題や困難に立ちむかい、乗り越える、積極的な「忍耐」という信仰の力を私達の中に生み出すと言っています。また、「忍耐は練達を生み出す」とあります。錬達とはテスト済みという意味があるそうです。私達も信仰生活の中で、色々な患難を経験します。そうやって私たちの信仰は試され、強くなり、練達した者となり、神様が「万事を益となるようにして下さる」(ローマ8:28)という希望に満ちた信仰をもつことができるようになるのです。
詩篇の作者が119篇71節で
「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。」と書いています。
患難が絶望やあきらめに終わらないで、希望の信仰を私達にもたらす恵みに変えられていくように祈ろうではありませんか。イエス・キリスト様の御言を信頼していくという確かな土台の上に私達の人生を築かせていただきましょう。
V.御言を聞いて行う者となろう。
今日の御言の大切なポイントをもう一度振り返りましょう。
「わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。」(マタイ7章24節)
聖書は主の御言をただ聴くだけではなく、行う者となりなさいとおっしゃっています。最初の方で「主の御言に信頼する」決心をすることが、大切であることを話しました。今度は御言に従い実行することができるように祈り、それを具体的に実践していきましょう。主を信頼して、御言で教えられたことを行わなければ知っているだけで終わってしまいます。
ヤコブの手紙2章17節にこのようにあります。
「信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。」また2章20節には「ああ、愚かな人よ。行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか。」
御言に従い実行に移すということは、信仰と勇気を必要とする時もあります。諏訪の教会で初めて会堂建築を祈り始めた時のことです。1年半の祈りをいたしました。その間、様々なプランを立て、夢を描きました。必要な資金も次第に与えられていき、夢と希望が大きく膨らんでいったのです。そして、最後の半年は期限を決めて連鎖祈祷を始めました。それから半年がたったのですが、主からの答えがないのです。かなり焦りました。「主よ、何らかの導きなり確信を与える御言をください。」そのように必死に祈りました。
主は1週間沈黙を保たれました。諏訪の信徒の方々に、進む方向性を伝えなくてはいけない前日の土曜日に、主はようやく答えてくださったのです。それは第一ペテロ5章6〜7節の御言でした。
「だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。」
私はこの御言が「すべてを主にゆだねて白紙にしなさい」という導きに聞こえました。正直「神様本気ですか!」と、頭が真っ白になり、すぐに受け止めることができませんでした。色々な言い訳を神様にいたしましたが、最後は主に従うことにいたしました。白紙に戻すと言ったら教会の中でいったい何が起こるのだろうと、信徒の皆さんに発表する直前まで落ち着きませんでした。しかし、イエス様は従うものを決して失望落胆させるお方ではありません。 礼拝の後に「計画を白紙にして主に委ねます。」と発表いたしました。なんと信徒の皆さんが全員笑顔なのです。予想外の反応に、私の方が戸惑うやらほっとするやらで複雑な思いをいたしました。「何故笑顔なの?」と・・・・
ただはっきりしたことは、皆が完全に一致したということであります。それから、新たなる祈りが始まって1週間後に今の会堂が与えられる道が開かれたのです。
確かに、1年半祈って私達が描いたものとは違いましたが、私達が願った以上のものを主は与えてくださいました。何故なら、私達が計画していた建物の2倍近い広さの教会が与えられたからです。
主は信頼して御言に従う者に、最高の答えを出してくださるお方であります。そしてこれは、主を信頼して従った者だけが体験できる大きな恵みなのであります。
まとめ
主は私達に、無理やりに従わせることをなさいません。私達の方から主を信頼し、主が与えようとされている恵みの中に飛び込んでくることを待っておられるのであります。イエス・キリスト様の御言を人生の土台とし「イエス様の御言を聞いて行う者」とさせていただこうではありませんか。