聖日礼拝

 

説教者 山本憲治 牧師                          2011.10.2

聖書箇所 ヨハネによる福音章5章1〜14節        

「私を愛し共にいてくださるお方」

 

  今は天に召されましたが、マザー・テレサというカトリックの修道女がいたことをご存知だと思います。インドのカルカッタを中心にして、貧しい人々を助け、病気の治療を行い、ノーベル平和賞も受けた方です。

 マザー・テレサの働きの中に、「死に行く者の家」という働きがあります。インドでは、たった一枚の布を路上に敷いて暮らしているような、貧しい人々が大勢いて、路上に敷いた布の上で生まれ、一生をその上で生活し、死んで行く人々が今も何十万人もいると聞きました。

 路上生活の人で、身寄りのないお年寄りは道端でひとり淋しく息を引き取り、また病気の人は道端に放置されたまま死に、その亡骸はゴミのようにして処分されてしまうのだそうです。

 マザー・テレサの修道会で奉仕をする男性修道士は、朝早くから駅の片隅や汚水処理の側溝などを巡回いたします。 毎日必ず行き倒れの人がいるのだそうです。修道士は死にかかっている人を、すぐに修道会の施設に運び入れ、全身をきれいに洗ってあげ、清潔な衣服を着せ、ベッドに寝かせます。

 収容された人は生まれて初めて、人間らしい心のこもった扱いを受け、神の愛を感じ安らかに死んで行くということです。

 人として生まれた以上、人間らしくあつかわれて人生を生きるということは誰もが願うことではないでしょうか。

 今日の聖書箇所でありますヨハネ5:1〜14に、38年間も寝たきりの男性のことが記されています。彼は池の水が動く時に、誰かにその中に入れてもらい、病気を治したいという願いを持っていました。しかし彼に注目する者は誰もいませんでした。 

 彼は数に入らない存在として、誰にも知られずに朽ち果て、一生を終わろうとしていました。そこに主イエス様が現れ、彼の人生を全く新しいものに変えてくださったのです。

 人は見捨てても、主イエス様は決して私たちを見捨てることのない愛の救い主です。御言を通して、主イエス様の素晴らしさを今日も教えていただきましょう。今日から始まる一週間を聖霊様の助けと導きによって歩んで行きましょう。

 

T.イエス様は私の苦しみの中へ来て下さるお方。(5:1〜4)

 エルサレムにある羊の門のそばに、へブル語でベテスダと呼ばれる池がありました。そこには五つの回廊がり、その回廊の中には、病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者などが、大ぜい体を横たえていたとあります。

 1節を見ますと、ちょうどユダヤ人の祭りの時であったことがわかります。ユダヤ人男性は、年に3回の祭りのためにエルサレムに上る務めがありました(出エジプト23:17参照)。

 過越の祭り(3〜4月)、ペンテコステ(収穫感謝祭)(5〜6月)、仮庵(かりいお)の祭り(9〜10月)があります。ここに記されている祭りはペンテコステであっただろうと言われています。

 エルサレムは祭りのために地方から出てきた人々で賑わっていました。しかし、イエス様は華やかな祭りには行かれないで、華やかさとは対照的なベテスダの池へ足を運ばれました。

 人々が楽しみ、賑やかにしている時、イエス様の思いは、楽しみから阻害され、人々から忘れられ、苦しんでいる人に向けられていたのです。特にこのベテスダの池の周りには、医者から見離され、家族に捨てられたような、行き場のない人々が大勢集まっていたとあります。

 彼らは時折池の水が揺れ動く時に、真っ先に飛び込んだ者が癒されるという一筋の望みにすがって、じっと水の動くのを待ち続けてそこで暮らしていたのです。 

 主イエス様はこの悲惨な場所へ自ら進んで出かけられていったのです。

 

 先週私は、比留間先生達が上野でおこなっています、ホームレス伝道のDVDを見させていただきました。皆さんの中にも、その働きのために11年の間ご奉仕された方々がいらっしいます。本当に尊い素晴らしい働きだなと感動しました。また御言に真剣に聞き入る300名のホームレスの方々の姿を見て、イエス様の素晴らしい愛の御業の故に主の御名をあがめました。

 社会の最底辺で暮らしている人々に対して「気の毒だ」という思いはあっても、その人々の所に出向く人はそう多くはないと思います。しかし聖書には、主イエス様が全ての人々を、特に病気や、貧しい人々を訪ね歩かれ、彼らを救いに導き、癒しておられる愛の姿が記されています。そのイエス様の姿にならって行くのが私達の歩むべき道だと思うのです。

 私たちの教会は「キリストを喜び、キリストを伝える教会」として全ての人に福音を伝える使命を与えられています。

  その一環として、人々に忘れ去られている方々に重荷を持ち、この教会全体の祈りの中で11年間もおにぎりやその他の食べ物、衣類などを持ってホームレス伝道に出かけることを継続実践してくださっていた尊い働きに、感動を覚え頭が下がる思いがいたします。今後機会があれば、私もお手伝いをさせていただきたいと思っています。

 主イエス様は、私達の苦しみの中に飛び込んで来て下さる救い主です。私たちが罪の重荷に苦しみ、永遠の地獄の中に滅んで行くのを見過ごしにできないお方なのです。私たちの中にも苦しみを通して、イエス様と出会い、救いに導かれた方々が多くいらっしゃいます。

 神学生の時のことです。私は、末期癌の患者さんが入院する病院に伝道に行く機会が与えられました。そこでメッセージをさせてもらった時のことですが、一人優しい笑顔で私の話を聞いておられる御婦人がいらっしゃいました。

 後でその方に話を聞きますと、余命3ヶ月の患者さんでありました。何故そんなに笑顔なのかと聞きますと、入院したときは、6ヶ月の命という死の絶望の中にいらっしゃったそうです。しかし、イエス様の救いをいただいた時から、今も主と共に生かしていただける感謝と、「天国でイエス様が、私を迎えて下さる希望を与えられているのです」と話して下さいました。その方は結局、その後2年も生かされ平安のうちに天に召されたと聞いています。

 クリスチャンであっても生きている限り苦しみや試練はあります。山崎パンの飯島社長は、会社を始めた先代の社長夫妻と共に洗礼を受けクリスチャンになりました。会社は拡大して行きましたが、事業の中心であるパン工場が火事にあいました。その時に先代夫妻と飯島社長は、火災はあまりにも商売本位であった自分たちの経営に対する神様の戒めであると感じ悔い改め、必死で祈ったそうです。それによって新しい主の導きによる展開がなされ、今の山崎パンがあると証しをされています。

 イエス様は私たちに最善のことをして下さる神様です。祈って、主イエス様にすがって行きましょう。

 

U.イエス様は苦しみを癒す力をもっておられる。(5:5〜9) 

 イエスはその人が横になっているのを見、また長い間患っていたのを知って、その人に『なおりたいのか』と言われた」(6節)

 主イエス様がベテスダの池にやって来られ、声をかけられたのは最も悲惨な生活をしている人でした。時々池の水が動くその時に、真っ先に入る者が癒されることになっていましたが、この人は38年間もその機会を待ち続けていたのです。

 体が自由にならず寝たきりの身です。たとえ水が動いたとしても、その中に真っ先に入ることは不可能であることは、はっきりしています。

 そこに初対面のイエス様が、(6節)『なおりたいのか』と声をかけて下さったのです。彼はびっくりすると同時に、このように答えました(7節)「誰も私を助けてくれない、わたしを無視して他の人が先に飛び込んでしまいます」。

 病以上にこの人を苦しめていたのは、誰も自分を顧みてくれない、助けてくれない、認めてくれないという淋しい現実でした。この中にはイジメを経験された方もおられると思います。イジメは相手を無視することから始まるといいます。愛の反対は意地悪や憎しみだけではなく、無関心であるとも言われています。相手を無視することは愛の反対の姿なのです。この人はまさに38年間も、社会からイジメにあって生きてきたと言えるのです。これほど辛いことはないでしょう。

 「なおりたいのか・・・」主イエス様は難しいことは言いません。単純で分りやすい質問をしておられます。38年間無視され続けてきた人にとって、自分に関心を持ち、温かい言葉をかけてくれた人がいたことはどれほどの喜びだったことでしょう。

   主イエス様は、淋しい人、一人ぼっちの人に温かい目を向けておられます。イエス様は「わたしはあなた方を捨てて孤児とはしない」(ヨハネ1418)と約束して下さっています。

 今も主イエス様の関心は私たち一人一人に向けられています。主はあなたの苦しみ、問題、悩み、病気などを全てご存知です。

 『あなたはなおりたいのか。立ち直りたいのか。元気になりたいのか。わたしはあなたの苦しみを理解している。わたしがその重荷を背負ってあげよう。あなたは本当になおりたいのか』とイエス様は呼びかけて下さっています。

 イエス様は彼に命じられました。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」(8節)

その結果、彼は癒され、何と38年ぶりに歩き始めたのです。イエス様のなさることは愛と力に満ちています。

 この中には病気を癒された方もいらっしゃるでしょう。心の苦しみを癒された人もいると思います。そして今現在も、闘病生活をしている方もおられます。その方々のために、日々イエス様の名によって祈らせていただいています。

 主イエス様はこの瞬間も、この礼拝の真ん中におられます。あなたの問題に主が答を与えてくださるのです。あなたの心も体も主が癒してくださることを信じて祈りましょう。

 

V.イエス様は信仰生活を続ける力を下さる。(5:9後半〜14節)

 「その後、イエスは宮でその人に出会ったので、彼に言われた『ごらん、あなたはよくなった。もう罪を犯してはいけない。何かもっと悪いことが、あなたの身に起こるかも知れないから』。」(14節)

 この人はイエス様によって癒されました。それだけでも喜んでいたことでしょう。しかし、イエス様は、この癒された人を捜しに行かれたのです。神殿で彼を見つけたときに言われた御言葉が14節です。イエス様は38年間の彼の病気を癒されたのですが、彼を見つけ出して罪の赦しと共に、罪から離れ、きよい生活をするようにと伝えています。これは私たちクリスチャンに対するメッセージでもあります。

 私たちはイエス様を信じた時に、どんな人でも罪を赦され神の子になります。これが救いの第一歩です。次に大事なことはイエス様を信じ続けてイエス様に従う生活を続けることです。

 イエスを信じたからと言って、すぐに完成されたクリスチャンになるわけではありません。古い罪の習慣を一つ一つ整理して、清めていただき、イエス様に日々つながり、教会につながって信仰生活を続けて行くのです。

 信仰生活に大切な三つのことを具体的に挙げましょう。

 

➀ イエス様だけをあなたの神様として、偶像礼拝から離れましょう。お守り、お札、占い、

  星占い、トランプ占い、宇宙の霊と交わるチャネリング、霊媒、お祓(はら)いなど沢

  山のものがあります。先日、ある方が神棚と仏壇をもってこられました。主イエスの御

名によって祈り処分をしました。自分の身の周りから、偶像を一つ一つ処分し、偶像礼

拝に巻き込まれないように祈って行動して行くことが大切です。

 

➁ イエス様を愛し、イエス様の清さをいただきましょう。日々聖書を読み、祈り、主の  

  御姿を聖書から教えていただきましょう。教会では必ず聖書が語られます。頭だけの

  信仰にならないように、奉仕を通して、主に仕えてまいりましょう。

 

➂ お互いに祈りあって行くことです。世の中の学校は点数のよい人が重んじられます。出

  来ない人、弱い人は置いて行かれ無視されます。しかし教会は違います。何よりもお互

  いのために祈ります。「祈らないことは最大の罪である」と言われています。イエス様

  の御名によって祈り、教会の兄弟姉妹のために、お互いのために祈り合って下さい。祈

  りは愛の表れであり、私たちに与えられている尊い務めです。お互いに祈り合いましょ

  う。

 

 

まとめ

 イエス様は、私達を愛し共にいてくださるお方です。主の恵みと溢れる御愛は変わることなく、日々私達に降り注がれています。聖書の御言を通して、主イエス様の御名によって祈り、主の愛の確かさを毎日深めていただいてください。イエス様の愛によって互いに愛し合いましょう。主からいただいた愛を、自分の中にだけとどめておかないで、他の人々と分かち合っていきましょう。