聖日礼拝

 

説教者 山本憲治 牧師                           2011.10.9

聖書箇所 マタイによる福音書18章21〜35節

「主が許してくださったから私も許せるのです」

 

 先週の新聞にノーベル平和賞を受賞した3名の女性の記事がありました。女性の人権を巡って非暴力で奮闘した女性達であります。それに対比して、以前ノーベル平和賞を授与したオバマ大統領のことがやり玉に挙がっていました。平和賞を受けたとは言え、未だ世界で戦争を進めているその矛盾に抗議するものでした。非暴力で人権を獲得する努力を続ける者と、戦争という暴力を使ってでも、平和を手に入れようとする者との違いが指摘されているのだと思います。

 本当の平和とは、いったいどのようにして、築き上げるものなのでしょうか。それは、お互いに許し合うことから始まるのではないかと思うのです。許すということは、相手を受け入れること、その存在を認めることです。許しがたいことをした相手を、そのように許すということは、傷つけられた自分がまず癒されなくては始められないことでもあります。

 イエス様は「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。」と言われました。7掛ける70は490回です。主は無限に許しなさいと言われているのです。今日の箇所から、この無限大の許しをどうすれば持つことができるのか、私達の生活の中に取り入れることができるのかを、御言葉を通して主に教えていただきましょう

 

T.主の御前に人を許すことができない自分を認めること(21〜22節)

 ペテロは、兄弟が罪を犯してきた場合「私は何回まで許せば良いのでしょうか」とイエス様に質問をしました。ペテロのこの質問には理由があります。今日の聖書箇所の冒頭に、「そのとき」とあるように、この話は、前の話から続いているのです。18章15節でイエス様は「兄弟が罪を犯すなら」と、罪の許しの話をしておられます。

 日本では「仏の顔も三度まで」と、仏様でも3回までは許すけれど4度目からは許さないということわざがあります。ユダヤでも同じ思想があるそうです。あるユダヤ人ラビが、このような言葉を残しています。「隣人から許しを三回以上請うことはできない。」また「もし人が一度罪を犯した場合には許される。二度目も許される。三度犯した場合も許される。しかし、四度目に罪を犯した場合には許されない。」。

ペテロは、7回許せば十分だと考えていたのでしょう。そこで、彼は彼なりの寛大さをアピールしたつもりで「七たびまでですか?」と質問しました。

 ペテロのこの考えには、問題がありました。それは、彼が「人が自分に対して罪を犯した」という被害者側にしか立っていないと言うことです。そこで、イエス様はペテロを諭すように言われました。22節で「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。

 イエス様がおっしゃっていることは、私達が「許せない、許さない」「やられたからやり返す」という復讐の心から解放されて、他人の罪を全部忘れなさいと言うことであります。寛大な心を示したと思ったペテロにとって、このイエス様の言葉は想定外のものだったと思います。その後でイエス様の話を聞いたペテロは、自分が人を許すことのできない人間であるということにまず気付かされたのではないでしょうか。

 私達もまず主の御前に、自分の力では人の罪を許すことのできない者であることを認めなければなりません。

 人の罪を、許すことができない自分を認め、主の前に謙り下って、イエス様に私を許せる者へと変えてくださいと祈りましょう。

 

U.許しは神様の哀れみによる(23〜34節)

 許しは三回までと言う常識の中で生きてきたペテロと弟子達にとって、イエス様のお言葉は、驚きであると共に、納得しがたい言葉であったと思います。イエス様もそれを分かっておられたからこそ、たとえ話しをされたのだと思うのです。

神様の哀れみによって許されたことを私達はいとも簡単に忘れるものであることが語られています。たとえを見てみましょう。

 王に対して、1万タラントの借金を負った僕がまず登場します。1タラントは約6千万円でしたから1万タラントは6千億円になります。

王は僕に、自分自身を含め妻子と財産の全てを売り払って借金を返すようにいいます。「どうか待ってください」とひれ伏して哀願する僕を、王は哀れに思って彼を許し、何と借金を全額免除するのです。僕にとってこれは、天にも昇るほどの喜びであったはずです。彼は借金地獄から解放され自由の身になったのです。しかし、それは彼自身の努力や働きによってではなく、ただ王様の哀れみによって与えられた許しでありました。

 僕はこのことを心から感謝し、哀れみを受け許されたことの喜びと幸いを自分の人生に生かすべきでした。ところが自分に100デナリ、約100万円の借金をしている仲間が現れたれた時に、彼は怒りをあらわにし、彼を捕らえ、首を絞め、金を返せと責めたてます。

100デナリならば、待ってさえあげれば返せない額ではないはずでした。それ以上に、彼は自分が許してもらった借金の大きさを考えるならば「もう返さなくていいよ」くらいの言葉が出ても良かったのではないでしょうか。しかし、彼は待ってあげるどころか、その仲間を牢屋に入れてしまいます。これでは働きようもなく返すことすらできません。つまりその僕は、仲間をさらに救いようのない、借金地獄にたたき落とすようなことをしてしまったのです。この結果僕は、王の怒りをかい自分が受けた哀れみと許しの恵みさえ取り上げられてしまうのです。

 許しは、神様の一方的な哀れみであります。決して人の努力や働きによって得られるものではありません。1万タラントの負債のある者とは、私たち自身のことであります。払い切れないほどの罪の大きさ、深さ、重さを背負って苦しんでいる私達の姿をあらわしています。27節の「僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。」このところから、神の許しの豊かさと限りない哀れみが、いかに深く大きいものであるかを知ることができます。

 主の許しは、このたとえ話に出てくる王のように、愛と哀れみにより、私達が負っている全ての罪の負債(借金)を帳消しにすることであります。それは、イエス様が成しとげられた十字架の贖いと許しによってあらわされました。この十字架の愛と許しを、主はあなたに与えてくださっただけではなく、許しを受けたあなたと他の人々との関係の中にも実現してほしいと望んでいらっしゃるのです。

 今日、あらためて主の十字架の愛と哀れみによって許されていることを感謝いたしましょう。そして、この十字架の愛と許しが私を通して、家族の間に、友人知人との間に、会社や地域に表されていくように祈り求めようではありませんか。

 

V.手放せないでいる心の傷や罪を、主に癒していただくこと(35節)

 35節で主は 「あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう。」とあります。

 私達が人々に対して「許さない」という思いを持つことが罪なのです。その罪を手放さないで、その罪を持ち続けているなら、あなたの罪も許されないと言われているのです。

 

 ある時わたしは、一人の御婦人とぶつかり合うという、気まずい状態に陥ってしまいました。その方にも大変辛い思いをさせてしまいましたし、自分も苦しい思いをしました。

 その方は、幼少期に親から虐待を受け心に大きな傷を持っている方でした。その為か、調子の良い時は問題がないのですが、ひとたび崩れると人格が変わったようになって、こちらが優しさを持って接しようとすればするほど怒りを持って返しくるのです。

 経験も知識もまだ乏しかった私達夫婦には、荷が重く、とうとう私の心の許容範囲を超えてしまいました。他の信徒のことで怒りをぶつけてくる彼女に、私は思わず「そんなにこの教会がいやなら来なくてもいいのですよ。」と口走ってしまったのです。「あっ」と気付いた時は遅く、口から出てしまった言葉は元に収めることはできません。怒りを爆発させた彼女は教会に来られなくなりました。彼女に謝りたいと思って訪問したのですが、門前払いを食らってしまいました。彼女のご主人とは気まずくなるような問題はありませんでした。しかし、奥さんのことを思い、ご主人も来られなくなってしまったのです。私の軽率な一言のために、大切な二人の信徒を失うことになりました。

 私は主に許しを願い、去った夫婦との和解を願い祈りました。しかし、どんなに許しを祈っても私の心は晴れることがありませんでした。その理由は二つありました。一つは自己嫌悪です。それと、許しを祈りながら、自分の中から沸いてくる自分を正当化する思いに苦しみました。「自分が牧師として未熟故に、まいてしまった種なのだから自分を正当化する筋合いはない」と、そのように思ってもだめでした。ますます、自己嫌悪と自分を正当化する思いが強くなる一方でした。

 半年くらい苦しんだ後、祈りの中で主はあることに気付かせてくださいました。自分を正当化する思いの中に、ご婦人を責める思いがあることに気付かされたのです。相手を「責める」と言うことは、相手を「許さない」と言うことと同じであります。私はその時はじめて自分の中に、相手を許せないほどの心の傷が自分にもあることに気付かされたのです。相手を傷つけたとばかり思っていましたが、自分も傷ついていたのです。

 私は祈り方を変えました。「主よ私を哀れんで下さい。私の心を癒してください。」「私は許したいのです。」それから1年ほど祈りは続きました。徐々に自分の心が癒されていく中で、私の祈りも変えられていきました。「主よ、許したいのです」から「主よ、許せるようにしてください」そして「主よ、許します」と・・・。

 許せるようになった時、私の心も癒されました。そしてまもなく、その御婦人の方から和解の申し入れがあったのです。その方と直接会い、主イエス様の名によって許し合い、祈り合いました。

 私は改めて、この時に「許す」ことと「許される」こととの素晴らしさ、ありがたさを実感すると共に、手放せないでいる自分の心の傷や罪を主に、癒していただくことが大切であることを学んだのです。

 

まとめ

 皆さんの中にもし今、「許せない」という思いに縛られている方がいらっしゃいましたら、あなたの心の傷を主の御前に持って行きましょう。イエス様は、愛を持って私達の心の傷を癒してくださるお方であります。

 私達が「許せない」と言う罪を含め、その重荷に耐えかねて、心が傷つき苦しみ悶えているのを放って置けない哀れみ深い愛の神様なのです。私達の心を癒して清めてくださるのは、主の十字架の愛による許しだけであります。主に癒していただいて「許せない」罪の心を手放すことができるように、解放していただこうではありませんか。

「主が許してくださったから私も許します。」と言える者にしていただきましょう。