聖日礼拝

説教者 山本憲治 牧師

聖書箇所 マタイによる福音書7章24〜29節

「御言を聞いて行う者が受ける祝福。」

 

 先週の13日に、天皇陛下主催で秋の園遊会が東京赤坂の御苑で行われたことがニュースに流れていました。そこには沢山の今年活躍した方々が出席されたそうです。その中に今年活躍した「なでしこジャパン」の沢選手と佐々木監督もいました。その沢選手と佐々木監督が天皇陛下と交わしていた会話に心が止まりました。

 天皇陛下が日本のゴールキーパーが決勝戦で、手ではなくとっさの判断により足でボールを止めたのに驚いたと言いっておられました。それに対して沢選手が、「それも、日頃の練習の成果です。」「それと名監督の指示のおかげです。」と言っていました。

 それを聞いて私は、以前他の何人かの監督が、「選手がその力を完全に発揮できるかどうかは、監督の指導と采配にある」と言っていたのを思い出しました。

 私達クリスチャンにも、素晴らしい人生の指導者イエス様がおられます。そのお言葉は確かであり、間違いがありません。正確で時にかなった指示が出されます。イエス様の御言を聞いて行う者となっていく時にどんなに素晴らしい祝福が待っているのかを、今日の御言葉を通して教えていただきましょう。

 

1.岩の上に家を建てた賢い人

 マタイによる福音書5,6,7各章は、いわゆる山上の垂訓と言われているところです。今日読みました聖書箇所は、イエス様の「山上の説教」の結論となります。「だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。」や「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」。また「まず神の国と神の義とを求めなさい。」「人をさばくな。自分がさばかれないためである。」など、神の国の憲法とも言えるような主の教えや思想が、ぎっしりと詰まったところであります。

 ここに書かれてある主の御言は、当時の人々にとってはもちろんのこと、現代に生きる私達にとっても必要不可欠な教えであり、驚くような内容であります。イエス様はパリサイ人や律法学者達また世の中の常識的な考えとは、全く正反対のことを言っておられます。それ故に彼らが、幾度となくイエス様の揚げ足をとったり、罠にかけようとする場面が聖書の中には出てきます。しかし、イエス様は、御言を曲げることも撤回することもなさいませんでした。人の顔色を見たり、世情に流されて妥協したりしてお語りになることはありませんでした。主は御自分のことを「わたしは道であり、真理であり、命である。(ヨハネ14:6)と言われました。つまり、イエス様こそが真実なのです。何事にも、何人にも左右されることのないお方です。御言をただ聞くだけの者にならないで、行う者になりなさいとおっしゃっています。

 今日の聖書箇所と同じページにありますマタイ7章13~14節には「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。」とあります。

 主の御言を実行することは、口で言うほど簡単なものではないかもしれません。御言を実行することは、狭い門や、細い道を通っていくようなものであると言われています。しかし、それは「永遠の命」に通じる道なのです。イエス様は、わたしは「道であり、真理であり、命である」と言われています。私達が主の御言を聞いて、行う者になっていく時、たとえ困難や壁にぶつかったとしても、命の主であるイエス・キリスト様の守りと導きと助けとを体験できるのです。その体験を通して私達は、主との関係を強め深めていけるのです。

 その結果、私達の人生にどのような素晴らしいことが起きるのでしょうか。 

マタイ7章24節にこのようにあります。

それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。

 イエス様は、主の御言を聞いて行うのならば、「雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。」とあるように、私達の人生にどのような困難や試練、苦しみや悲しみが起きたとしても大丈夫であると主は言われるのです。「わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。

 「」であるイエス様の御言を人生の土台とすることは、主の御言を聞いて、従うことであります。「岩の上に自分の家を建てた賢い人」と言われるような、しっかりとした人生を築いていこうではありませんか。

 

U.砂の上に立てた愚かな人。

 今度は、御言を聞いても実行しなければ、どのようになってしまうのかを見て参りましょう。マタイ7章26〜27節を読みます。

また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。

 15〜20節には「偽預言者への警戒」21〜23節には「父の御旨を行わない者の末路」つまり、主の御言に従わない者の末路とも言えると思います。主は私達にこのように警告しておられるのです。

 御言に従わない者は、主の御言を自分達に都合の良い者に変えてしまう危険があります。偽予言者の姿は、旧約聖書の列王記から預言書に至るまで色々なところに登場しています。彼らが語るところは神様の御心ではなく、時には自分達の地位を守るために使った王へのへつらいから出た言葉でありました。つまり人の欲望が土台となっていたのです。王が偽預言者の耳ざわりの良い言葉に従った結果、イスラエルは異国に滅ぼされてしまいます。

 マタイ7章15〜20節の偽預言者についての記事は、「御言に従わなければ、このようになる危険が自分にもある」と教えられているのです。それでは、従っているかいないかを、どのような判断基準でしたらよいのでしょうか。マタイ7章16〜18節に「あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。

 その実によって」とあります。その実とはどのような実なのでしょうか。

 ガラテヤ5章22節に「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制です。」とあります。私達が自分の生活の中に、どのような実を結んでいるかが問われるのだと思います。ですから茨やアザミのような「悪い実」を結ぶのではなく、聖霊様の助けを頂いて、主の御言に従っていく中で「御霊の実を」結ばせていただきましょう。

 21節以下にある「父の御旨を行わない者の末路」とは、どのようなものなのでしょうか。イエス様は「そのような者は天国には入れない」「そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」と、いうことになると警告されます。

 

 岩の上に建てた賢い人も、砂の上に建てた愚かな人も、どちらも同じように家を建てています。外から見た目はあまり変わらないのであります。その違いがはっきりするのは、嵐のような試練が起きた時にわかると書かれています。賢い人の家はどんなにひどい嵐が来ても倒れることはありません。しかし、砂の上に建てた愚か者の家は、嵐が来ると倒れてしまうのです。しかも「その倒れ方はひどいのである。」とあります。

 主のこの警告をしっかりと自分の生活の中に取り入れましょう。そして、砂の上に立てた愚かな人ではなく、主の御言に従う岩の上に家を建てた賢い人になれますようにと、祈りましょう。

 

V.主の権威溢れる御言に従う。

 「イエスがこれらの言を語り終えられると、群衆はその教にひどく驚いた。それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。」(28節)

 ここで、主イエス様が権威をもって語られ教えられたのは山上の説教をさしていますが、聖書に語られているイエス様の全ての御言には権威があるのです。権威を持って語られたと言うことは、それは借り物の言葉ではなく、神であるイエス様ご自身の思いと意志がはっきりと示されているということです。

 イエス様は、はっきりと、命にいたる主の御言に従う道を選びなさいと言われているのです。

 

 私が神学生の時にある問題に直面いたしました。神学生は毎週日曜日には、指定された教会に派遣され奉仕をいたします。派遣は、夏と冬には長期派遣があり、その他は日曜日のみの派遣となります。この前、森本亮介神学生が派遣生として来られたのは、夏の長期派遣であります。

 問題は日曜日の派遣の時に起きました。ある時M神学生が、とても良い賛美の楽譜を派遣先の教会から手に入れてきました。私もその楽譜がほしいと思いそのM神学生に頼みました。今思えば、彼が手にしていた楽譜をコピーすれば良かったのですが、何故か彼は派遣教会の牧師婦人に頼んだのです。その結果、楽譜はいただけたのですが、神学生が忙しい牧師婦人に頼み事をするのは失礼なことですと私が怒られてしまいました。

 私もその時に、「申し訳ありませんでした」と素直に謝れば良かったのですが、「コピーくらいで怒ることはないでしょう。」とM神学生の前でつぶやいてしまいました。次の月曜日に、そのM神学生が「君がつぶやいたこと、昨日牧師婦人に伝えておいたから」と言うのです。なんて余計なことをしてくれたんだと思いましたが、引っ込めようがありません。ただ、その教会には派遣にならないようにと祈るのみでした。数ヶ月おきに派遣教会は変わるのですが、次の派遣先が決まる数日前に、私は祈りました。「あの牧師婦人がおられる教会だけは派遣しないで下さい。」すると御言が心に浮かびました。「だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。(第一ペテロ5:6)それは、謙って主に従うようにと言う御言でした。

 何と、ものの見事にその牧師婦人がおられる教会に派遣が決まりました。私は「謙りを学ばせてください」と、祈って腹をくくりました。派遣当日その牧師婦人は、教会の玄関に立っておられました。私は謙ることを決めたこともあり、真っ先に深々と頭を下げて「先日はお忙しいのに本当にありがとうございました。また、失礼なことをお願いしてすみませんでした」と感謝とお詫びをしました。

 その牧師婦人は笑って許して下さいました。その教会での派遣期間は祝福され、一人の方に個人伝道をして救われ、また、その牧師婦人から多くのことを学ばせていただきました。

 どのようなことからも避けたり逃げたりしないで、主の御言に従うならば必ず祝福して下さることを主はこのような形でも教えて下さいました。

 

まとめ

 大きな嵐がやって来ても、倒されないでしっかりと歩んで行くためには、毎日の積み重ねが大切となります。どんな嵐が来ても、イエス様が共におられるから大丈夫と言えるように、主の御言を聞いて行う者に与えられる祝福を受け取っていこうではありませんか。