聖日礼拝

2011.11.6

 

説教者 山本憲治 牧師                         

聖書箇所 ルカによる福音書10章25〜37節

「あなたの隣人を愛しなさい」

 

 諏訪の開拓をしていた時のことですが、教会の人数がなかなか増えない中で、私は何とか一人でも多くの人に福音を伝え、救いに導きたいと願っていました。その為には、地域の人々の中に入り良い隣人になる必要があると思いました。しかし、思ったからといってなれるわけではなく、主の導きを求めて祈りました。そんな中、主は隣人となるためのあるチャンスを与えてくださいました。それは、公民館活動の働きをする役割の順番が回ってきたことでした。これは主の導きと信じて、できる限りのことをしようと決心をいたしました。その時の私の役割は、公民館主事ということで地域新聞を作る活動をしたり、1年間に行われる地域の行事や、お祭りの実行委員として参加することも役割の中に入っていました。もちろん、教会の牧師であることを告げてお祭りそのものには関われないと言うことを理解していただきました。その代わり、他のことは何でも率先してやらせていただき、自分にできることは進んでやるように心がけました。それも、隣人としての信頼を得たいと思ったからであります。その中でも、一緒に新聞作りをした人達とはとても良い関係と信頼を結ぶことができたのです。

 この働きは1年間だけでしたが、その後も一緒に活動した方々とは、とても良い交わりを続けることができました。また、彼らのおかげで、地域に教会の存在が知れ渡ったことを何よりも主に感謝いたしました。「良い隣人」となるための小さな前進でしたが、諏訪の教会と私にとっては、大きな一歩でありました。

 今日の聖書箇所から「隣人を愛すること」また「良い隣人になる」とはどういうことなのかを学んでまいりましょう。

 

T.イエス様を試すために質問してきた律法学者(25〜29節)

 ここに一人の律法学者が登場します。律法学者はイエス様に「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか。(25)と訊ねます。彼の目的はイエス様を試みることでしたから、答え次第では主に議論をふっかけることもできました。しかし、イエス様は彼にお答えになる前に、逆に問い返されます。「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか。(26)

 彼は律法学者でありましたから、律法に何と書いてあるかと訊ねられれば、すぐさま答えることができたでしょう。

 彼は、申命記6章5節から「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。」、それとレビ記19章18節から引用して「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」と答えます。これは、神様を愛することと、隣人への愛を表す聖句として、律法の中心的な聖句でもありました。

 イエス様は御言をもって答える彼を「あなたの答は正しい。」「そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる(28)とお答えになります。

 問題はその通りに行えない人間の弱さにあります。その通りに行えるのであるなら、イエス様の十字架は必要ないでしょう。私達は自分を愛するようには、自分の隣人を愛することはできないのであります。

 自分に良くしてくれる人、好きな人、気に入ってる人は、愛することもできますが、そうでない人を愛することは、私達にはなかなかできないのであります。人を愛しているように思えても、結局は自分を愛しているのです。私達はそういう弱さを持っています。

 一生懸命に律法を学び、律法を行おうとしていたこの律法学者が、自分の立場を弁護しようと思って、「では、私の隣人とは、いったい誰のことなのでしょうか」とイエス様にたずねます。この質問に対して、イエス様はさらにわかりやすく、たとえ話をもちいて教えられたのです。

 

U.死にかけていた人を助けたサマリヤ人(30〜35節)

 マタイ5章43〜44節を見てみますと、イエス様はこのようにおっしゃっています。「隣り人を愛し、敵を憎め」と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」この御言にあるように、ユダヤ人の人間関係は、「隣人か敵か」と分けてしまうような考え方があったことが分かります。彼らユダヤ人の言う隣人とは、同胞であり、大切な家族や友人知人等、自分の見方になる人々の事を言ったのでありましょう。しかし、このような考えは特にユダヤ人だけということではなく、人間であるなら、誰でも同じような考えを持っていると思うのです。では、イエス様のたとえ話を見ていきましょう。

 

 場面は、ある人がエルサレムからエリコに下っていく途中とあります。距離にして30キロ程度で、熊谷から秩父くらいの距離と思って良いでしょう。ただし標高の高低差が千メートル近くあるのだそうです。

 この人を強盗が襲いました。身ぐるみをはがすだけでは収まらず、旅人は半殺しの目にあうのです。すると、そこにたまたま一人の祭司が道を下ってきました。傷ついて瀕死の状態の旅人を目にすると、なんと祭司は「向こう側を通って行った。」とあります。彼は倒れている旅人を、無情にも見て見ぬふりをして立ち去ってしまったのです。そして次に下ってきたレビ人も、この場所にさしかかると同じように傷ついた人を見ても向こう側を通って行ってしまいました。私達は自分がこの祭司やレビ人と同じ立場にあったらどのような行動をとるでしょうか。同じ事をしてしまうかもしれませんね。

 三人目の人物が通りかかります。その人はサマリヤ人でした。彼は前の二人とは違い、瀕死の旅人を見て「気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。(33~34)とあります。サマリア人は、翌日宿屋の主人にお金を手渡して、傷ついた旅人を介抱するように頼みます。しかも、費用が余計にかかったら、「帰りがけに、わたしが支払います。(35)と言うのです。

 イエス様が語られたこのたとえ話の中には、私達の隣人とはどのような人々のことをいうのか、また私自身が良き隣人となるためにはどうあるべきなのか、その大切な教えが語られていると思います。

 一つ目は、だれかの「隣人」となるのに人種差別や偏見を持って、人を選り好みしたり、自分の事情や立場が第一となって、助けを必要としている人を見捨ててはならないと言うことであります。 また、イエス様が旅人のことを「ある人」と人種などを特定していらっしゃらないところも、その人がたとえどのような人であろうとも関係なく、隣人として愛しなさいと、おっしゃっておられるのではないでしょうか。

次に、二つ目は隣人となるには、「意志と決断が必要である」ということです。それは「愛の行動をとる意志と決断」と言っても良いかもしれません。何となく「隣人」になると言うことはできないことを主は語られていると思います。サマリヤ人も祭司やレビ人と同じく、危険な場所での一人旅でありました。旅人をその場で助けるかどうかを、彼の意志で決断しなくてはなりませんでした。強盗に襲われた危険きわまりない場所で、時間をかけて手当をしてあげることは並大抵のことではないと思います。

三つ目は、助けを必要としている人がいたら途中で投げ出さないで、最後まで、できる限りのことをしてあげることが大切だと教えられます。

 

V.あなたも行って同じようにしなさい(36〜37節)

 たとえ話を終えられると、イエス様は律法学者に質問をいたします。「この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか。」(36節)律法学者は、はっきりと「その人に慈悲深い行いをした人です」(37節)と答えました。それは祭司やレビ人を差し置いて、ユダヤ人が嫌い軽蔑していたサマリヤ人の示した愛が、彼らより勝ったものであることを認めることになったのです。ユダヤ人からすればこれを認めることは、屈辱的なことだったと思います。しかし、律法学者はイエス様にそのことをいい訳も弁護もせずに素直に認めたのです。主はそんな律法学者に、今度は「あなたも行って同じようにしなさい。(37)と言われたのです。

 サマリヤ人が無償の愛をもって傷ついた人を介抱し、その人を安全な場所へと持ち運び、その人の代価まで支払って救ってくれた。その様なことが私達にできるのでしょうか。

 このサマリヤ人こそが、イエス様御自身のことを表しているのです。

 イエス様がまず私達の真の隣人となってくださり、愛の犠牲を払って死にかけていた私達を救って下さいました。私達はイエス様の十字架によってあらわされた、愛の犠牲によって救われたのです。

あなたも行って同じようにしなさい。」このイエス様のお言葉に従い、少しでも周りの人々に対して、愛をあらわす隣人となっていけるようにお祈りいたしましょう。